『それでも恋するバルセロナ』から考えるポリアモリー
映画「それでも恋するバルセロナ」を観ました。
★★★☆☆
2008年の作品。
そもそもこれに興味を持ったのは、ポリアモリーという二人に限らない恋愛の価値観があることを知ったからで、ポーリーの人がお勧めしてたから観たいなーと思っていました。
おそらくポリアモリーの価値観の芯を食うには及ばない、お試し三角関係的な事態に終始してしまうんだけど、入門としては私には良かったです。
芸術家ってなんでこうなんかなと苛々する気持ちも沸きつつ…。
これ観てさらに思ったけど私個人はポリアモリーは多分苦手だな〜。とりあえず今の段階では生理的に受け付けない。その方達がどうというんじゃなくて、棲み分けが進んでいないから普通に自分の恋愛に入り込んでくる可能性があるってことが嫌。
私はそんなに割り切れない。ポーリーの思想は私には関係ないし、その人には侵害と取れないことも私にはかなりのダメージを受けるし相手には話通じないしで、もう都合良すぎで辛いだけだ…。
監督のウディ・アレンも二度離婚しているうえに籍を入れずにずっと付き合っていた恋人の養子と結婚してしまって裁判まで起こされてるような人だから、こんな映画作れるんでしょうね。(超苛々してる)
そういう人の存在は認めるけど、自分の秩序が崩壊するので自分の恋愛に入り込まないでほしいですね…。
マイノリティな価値観が異常だとは思わないけどそれを自分とは違う思想の人間に強要するのはもってのほか。それに、理解するのも残念ながら時間がかかるということを認識しておかないと、お互いが不幸になる。
理解を期待することを控えるのに一旦カミングアウトすると共感に引き込もうとするのは割とよく聞く例で、された方は突然のことに驚くしかできないけど、そういう場合は人をある距離まで明け渡した経験が普通に比べて圧倒的に少ないから、距離感を測れないだけなんだろうなと思う。理解から共有までの課程をすっ飛ばしてしまう。
その辺は思いやりとかそれまでの友情で充分解決できる話なんだけど、それでもやっぱり、宗教と似ていて理解できないものを無理に押しつけるのは暴力なので、理解できる人の間でなら全然平和でいいなぁ。その人の器を否定して不幸にしてしまうのはお門違いだよ、ということを考えました。
映画で充分。